簡単に信じてしまう人たち

──裏切られたと叫ぶ人たちの本当の構造

◆ なぜ“信じたのに裏切られた”と感じるのか?

「あの人のことを信じていたのに…」
「こんなに信用してたのに裏切られた」
そう語る人の多くは、自分の“善意”が踏みにじられたような痛みを抱えています。

でも本当に「信じた」のでしょうか?
実はそこには、“信じたつもり”の構造があります。

◆ 「信じた」はずが、実は“期待”や“依存”だった

信じるというのは、「相手をあるがままに受け入れること」ですが、
実際にはこんな前提が隠れていることが多いのです

「この人は私を救ってくれるはず」
「この人だけは、私を見捨てないはず」
「この人がいれば私は安心できる」

つまりそれは、「信じる」というよりも、“自分の不安を埋める手段として相手に依存した”状態。
だからこそ、その人が自分の理想から外れると、激しい失望や怒りが起こるのです。

◆ 「信じやすさ」の裏にある存在定義

こうした人たちの根底には、こんな“存在定義”があることがあります:

「誰かに必要とされないと、自分は価値がない」
「頑張って信じることで、愛される人にならなければ」
「拒絶されたら、自分の存在が否定されたことになる」

このような定義を持っていると、相手に「信じている」という仮面をかぶせながら、
実は相手を通じて“自分の存在価値を確かめようとしている”のです。

そして、それが裏切られたと感じたとき、
傷ついたのは「信頼」ではなく、「自己価値の確認行為」が壊れたから。

◆ なぜ、裏切られたように感じるのか?

それは、「この人がいれば私は大丈夫」という幻想にしがみついていたからです。

本当に信じていたのではなく、
「この人に信じさせておけば、私は安心できる」という、自分の脆さを補うための投影だった。
だから、相手が離れたとき、自分の存在そのものが崩れるような感覚になる。

◆ 必要なのは、他人を信じることではなく、“自分との再接続”

信じるという行為は、他人に向けるものではなく、
まず「自分の存在がここにあって大丈夫」という土台があって初めて成り立ちます。

「私は誰かに受け入れられなくても、ここにいていい」
「私は証明しなくても、存在していい」

この自己との信頼関係が築けていないと、
他人に対して“信じすぎてしまう”状態が生まれやすくなります。

◆ 「信じる」ことが問題ではなく、「自分を見失っていること」が問題

裏切られたと感じたとき、
本当に見直すべきは「相手」ではなく、
「なぜそこまで相手に自分の価値を預けていたのか?」という視点です。

それは「信じたから傷ついた」のではなく、
「自分の存在を、相手に託してしまっていたから傷ついた」ということ。

他人を癒す前に、まず自分の存在の土台を癒す必要があります。
「信じられなかった自分」ではなく、「信じることで自分を保とうとした自分」に気づくこと。
そこにこそ、本当の癒しの入り口があります。

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